ニューヨーク アイラブユー




16日の朝、ラジオをつけると「本日はヘンリー・マンシーニの誕生日です」というアナウンスとともにムーン・リバーが流れた。5番街の風景を思い出して、ひとりでぐずぐずと泣いてしまった。そのまま勢いで、カポーティの原作を読み返す。
ぐずぐずと考えながら、ヘップバーンつながりで『ゴシップ・ガール』のシーズン1*もみて、わたしはニューヨーク、とくにマンハッタンがとても好きなのだと気づいた。
だからこそニューヨークに着いて真っ先に行ったのは市立図書館だったし、エントランスに並んだ2頭のライオンを見た瞬間の胸の高鳴りをいまでも忘れられない。
あのライオンのわきを、ホリーはすり抜けていったんだ、「ぼく」は彼女を追いかけて、この階段をのぼったのだろう・・・そんなことを考えながら過ごす時間がとても楽しかった。
METでブレアごっこをするのも、『プリンセス・ダイアリー』のミアよろしくプラザ・ホテルからセントラルパークまでダッシュするのも楽しかったけれど。

「ムーン・リバー」は、故郷の川を思い浮かべながら自分を励ます様子を描いたものだ。少女時代の夢を忘れずにいたいと願うと同時に、川の流れを人生にたとえ、その中で挫折や落胆を味わうか、夢を掴むかは自分次第、というメッセージもこめられている。
原作では「眠りたくない。死にたくもない。空の牧場をどこまでもさすらっていたい。」とホリーがうたう場面が出てくるので、彼女が自身の流浪な人生を肯定しようとしていると解釈することもできるだろう。
故郷が定まっていないからこそ、ホリーのニューヨークへの思い入れも格別なのである。

私はニューヨークが大好きなの。私の街とは言えないし、そんなことはとても無理だと思うけど、それでも樹木や通りや家や、少なくともそんな何かしらは私の一部になっているはずよ。
だって、私もそういうものの一部になっているんだもの。


その次の日は、雨の中『ローマの休日』を観た。
アパートで料理をつくらせてと言うシーンも、ジョーとのお別れの場面も、何度見ても泣いちゃう。
叶わないけれど忘れたくない大切な恋というロマンス映画としての感動も大きいけれど、わたしはなにより、自分の運命は自分で決めるの、というアン王女の気高さと強かさにいつもあこがれている。
『ローマの休日』はもちろん舞台はローマだし、アン王女はヨーロッパ某国の王妃だけれど、わたしはこの映画はとてもアメリカ的だとおもっている。
ジョーがアメリカ人だから、とか製作国がそもそもアメリカだから、というのはもちろんだが、1920年ごろから始まったアメリカ芸術の勢いが全盛期を迎え、伝統的なヨーロッパ文化から脱却し、新しい思想や恋愛観を肯定していることが大きいのかもしれない。


ニューヨークもローマも、いまとても大変なことになっている。
街中に遺体安置所が置かれ、セントラルパークもスペイン広場も、平穏な場所ではなくなっている。
その様子は、すでに戦争状態である。日本も、例外ではない。
カフェのテラスでお茶をしたいし、ベスパで街中を駆け巡りたいし、天気のいい日に公園でアイスクリーム頬張ったりもしたい。
でも、いまはそれをすべきではない。
ヘップバーンの、戦争が終わって、戻ってきたもののありがたみや人の命に感謝の念をもつようになった、という言葉に共感できる日がきてほしいと願うことになるとは思わなかったけれど、わたしも恥ずことなくその気持ちをもつことができるよう、いまを大切にすごしたい。
もし彼女が現代にいたら、きっとこう言うんじゃないかな、と勝手に考えてみたりもする。

ねえ、この戦争が終わったら。
あなたにはわからないと思うけど。したいことをするの。一日中ね。


*1) 本作に登場するBことブレア・ウォルドーフはオードリー・ヘップバーンを崇拝しており、その様子は作中にもファッションや発言などで表されている。