歓喜の歌を待ちわびて

『ラ・フォル・ジュルネ TOKYO 2020』の中止が決定。
『東京・春・音楽祭』も3月27日(金)以降の全公演が中止となった。
それでよかったと思う。
この状況下じゃ、仕方がない。
せめてもっと早くに決まっていれば、そもそも1月に渡航禁止をしていれば…という気持ちはたくさんあるけれど、ここまで来てしまったらもうあとは収束を願うしかない。
こんな風に渡航の制限がかかり、自由に外出ができなくなり、音楽や芸術を楽しむことが許されなくなる日が生きているうちにくるなんて思ってもみなかった。

「音楽は社会に必要なのか?」ということを初めて真剣に考えたのは、18歳の時だった。
2011年3月、私は大学の進学を控えていて、日本中が「芸術・娯楽は自粛」ムードとなった時世に音楽や芸術を専攻することに後ろめたくなったのを覚えている。
その当時の自粛は、自分たちのためにとか会場が使えないというよりも、「被災地の方に配慮して」という意見が強かったように思う。
それであれば、芸術は必要だ、こういうときにこそ公演を実施して、文化的に豊かな社会を保つべきなのだという考えが支持された。

でも、今回は少し違う。そもそも人が集まることが懸念される。そして命にもかかわる、おそろしい病気だ。
そんな状況で、「でもお金のために公演は決行しましょう」なんてとても判断できない。

そんな中でも今年がベートーヴェンのアニバーサリーイヤーで、LFJも東京・春もこぞってベートーヴェンを取り上げていたこと、そして中止が告知された日が彼の命日の翌日であったことは奇跡のようだと思った。
私にとってベートーヴェンは、「平和」を象徴する音楽だから。

グスタフ・クリムトの名作《ベートーヴェン・フリーズ》は苦しむ人々を描いた第1部、病や狂気、死や苦悩といった「敵対する力」を反映した第2部を超え、第3部の「歓喜の歌」へと向かう。

ベルリンの壁が崩壊したとき、人々はみな「歓喜の歌」を歌った。
“Freude”(歓喜)の部分を、“Freiheit”(自由)に変えて、分断されていた2つの国の融和を祝った。

Such’ ihn über’m Sternenzelt!
Über Sternen muß er wohnen.

星空の上に神を求めよ
星の彼方に必ず神は住みたもう

ベートーヴェンが世に出た18世紀後半は、すでにフランス革命が起き、音楽が特権階級だけのものではなくなっていた。音楽が学術的な作品としてだけでなく、言葉と同じように人間的な感情を盛り込んだ標題性を持ったものと発展していた時代に書かれていたということも意識しておきたい。
そういった時代背景からも、自由や平和といった壮大なテーマから日常的な描写まで、様々な感情を音楽を通して共有することの豊かさに気づけると思うから。

LFJディレクター、ルネ・マルタン氏のメッセージも引用しておきたい。

しかし今は力を合わせて共に闘いましょう。
ベートーヴェンの交響曲第5番では、運命の扉が4回たたかれます。
今、まさに運命が扉をたたいています。
しかし私たちはより強くなることができるでしょう。
ベートーヴェンの音楽がこの困難から立ち直る力となり、私たちがより博愛に満ち、より人間らしくなれることを願っています。
そして必ずや、ベートーヴェンの素晴らしい音楽を再びみなさんと分かち合う日がおとずれることを信じています。

-公式HP「ラ・フォル・ジュルネ TOKYO 2020 開催中止のお知らせ」より

「音楽は社会に必要なのか?」
答えは、イエス。
どんなに生活が苦しくても、文化を削ってはいけない。
そのために、国は芸術家やそれらの運営に関わる人々への支援を続けてほしい。
公演ができなくても音源が売れなくても、まだできることはたくさんある。
びわ湖ホールのオペラ「神々の黄昏」も、YouTube配信の視聴者が1万人越えという驚異の数字を叩き出した。
こんな緊急時でも音楽や芸術を欲している人は、私たちの思う以上にたくさんいるはずなのだ。

今の状況はまるで戦時中のようだけど、戦争と一つ違うことは、「世界中のすべての人、みんな味方である」ということ。
アジア人差別が欧米で蔓延しているという事実はあるけれど、それも普段から潜在しているレイシズムの一部を切り取ったものにすぎない。
この戦いが終わったあと、すべての人と「歓喜の歌」を共に歌うことができる日を待ち、祈りながら日々を過ごしたい。